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(水) 00:00 公開作品
混じり気のない蒼天に
舞う薄紅のさくら花
鼠色したマンション包み
ごうごう唸る春一番

ぎいぎい軋むエレベーターが
十一、十二と昇り行く
鉄のつぼみが花弁を開き
咲いた一輪、白桜

はためく白いワンピース
細い素脚に膝頭
長黒髪に花弁を紡ぎ
編んだ先からまたほどく


「寒緋桜(カンヒザクラ)」   夕街昇雪


 しょ、しょ、証城寺。証城寺の庭は……
 携帯が謳いだす。

 俺はキャベツに包丁を入れる手を止めて、充電スタンドの携帯へ向かう。
 液晶画面には「をんなのてき」と表示されている。誰かと思えば隣の部屋の道成寺だ。俺は自動的に、ベランダに向かって右、日に焼けて黄ばみ始めた壁を向いて通話ボタンを押す。別に壁に穴は開いていないが、こいつから電話がかかってきた時の癖のようなものだ。
「もすもすー、おれ。道成寺(どうじょうじ)」
 はっきり聞こえるようにため息をついてやった。
「兼古(かねこ)ぉー。何だよぅ連れないな。女に振られて寂しい友人を、温かく迎えようという気は無いのか」
「振られる以前に出会いも無い、麗らかな春の日にぽつんと独りで昼食の用意をしている友人を、気遣うという気は無いのか?」
「俺のほうが傷付いてるよ~ぅ。メシ食わせろよ~ぅ。お隣さん同士、おすそ分けするもんだろよ~ぅ」
 それかよ、目的は。
「道成寺君、残念だが反対側の隣人におすそ分け済みでな。ない袖は振れん」
「兼古君、君の部屋は角部屋だろう。ない部屋の隣人にどう裾を分けたのかね」
「スパイダー……」
「うわーん、おばけがいるよう、へりくつおばけがいるよう」
「屁理屈お化けではないな。それは水子霊だ。1ダースは居るな」
「なんだよ、昔の女の話をするなよぅ。今は新しい恋に夢中なんだ」
「また女振ったのかよてめー。遊びなら付き合うんじゃねぇよ」
「違うよ、俺はいつでも本気だよぅ。でも、なんか合わなかったんだ。あんまり可愛くないし」
 情けない声で泣き言を言う。可愛くないかどうかなんて初めから分かるだろうが、全く。 ……こうやって取り留めも無く携帯で喋るのは何度目か。なんでこんな奴にばかり彼女が出来るんだ。こいつは付き合っているうちは甘え上手だが、他に可愛い子を見かけたとたん、手のひらを返したように冷血に女を振る。水子霊の噂も、こいつの態度の豹変振りを見ている俺にはあながち嘘とはいえない。道成寺に振られた女が、大学の講堂で声をかけてきた時、「人違いです」とか平気で言い放つのだから。
 言い寄る女もどうかしている。俺ならきっと幸せにしてやるというのに。嗚呼、燃えるような恋がしたい。そっと女を胸に抱いて安らかに眠るような──

“ぴんぽーん”
 携帯越しに、道成寺の部屋でドアチャイムが鳴る。
「あ、すまんが来客だ。はいはーい!」
 一転、黄色い声でベルの返事をする。チープな電子音で、亜麻色の髪の少女が流れる。俺の返事も聞かずに保留ボタンを押しやがった。うちに据付電話はないから、これをされると電話が使えなくなってしまうというのに。
 電話越しではなく、道成寺の部屋の方から玄関へ走る音が響く。ぼろマンションめ、ここの壁は薄過ぎるんだ。
 安いトタン製のドアの開く音。隣が帰ってきたら、この調子ですぐ分かる。そして──男にしては高い声。女だ。どちくしょう。
 しばらくして道成寺が電話に出た。
「また電話する。昔の彼女が遊びに来たんひゃ……」
 電話が静かに切れる。
「なんだ?」
 開けっ放しの口で喋るように、空気混じりの腑抜けた声。そう、笛が鳴るような奇妙な口調だった。
 俺は嫌な想像をした。押しかけ彼女が、電話中の奴に抱きつき、股間に手を延ばし、奴は素っ頓狂な声を──
 馬鹿馬鹿しくって携帯をスタンドに叩きつけるように置いた。大きく溜息を吐きつつ床に寝転ぶと、さっきまでみじん切りに仕かけたキャベツが、ごとりと塊のままでまな板に転がっている。やめたやめた。腹立ちも通り越して、呆れかえった。もう知らん。

 ごん、と部屋の壁に重い石を打ちつけたような音がする。
「おぅ?」
 驚いて、思わず声を上げてしまった。
 道成寺の奴、よりによって俺の部屋のほうの壁にもたれ掛かってイタしてやがる。ああ憎い憎い腹が立つ。壁が薄いのはあいつも重々承知のはずだ。さっきまで泣き言を聞いてやった隣人に対し、こういう事をする奴だ。憎い憎い腹が立つ。

 ふと、思いついた。
「嫌がらせじゃ!」
 俺は冷やかし半分、道成寺に電話をかけた。文句の一つも言ってやる。おいスティーブ、今日の客はうるさ過ぎる。音量を下げてくれ、とな。HA-HA-HA。
 が、出ない。受信待ちパルスの音が続く。番号を間違えたかなと思ったが、向こうの部屋から電話が鳴る音がするので決してかけ間違いではない。
 壁を蹴って「電話ですよー」と声をかける。大きな声なら聞こえるぐらい薄い壁だ。とはいえこもった音になるので、結局電話で喋ることになるのだが。
 少ししてパルスの音が消え、電話に出た。俺は道成寺に喋らせない勢いでまくし立てた。
「おい、早速始めるんじゃねぇよ。全くお盛んなことで。……じゃ、俺はしばらくどっか行ってるから。彼女、今度紹介しろよ。じゃあな!!」
 通話を切ろうとする直前、ごん、とまた音がする。ぐぅとヒキガエルが潰れたような声が続いた。俺は携帯を耳に当てた。
「道成寺? なにやってんだ?」
「ふぅん。……壁、薄いんですね」
 電話口に涼しげな女の声がした。
 俺は冷や汗を掻いた。
 どうやら道成寺の女が電話に出たようだ。しまったと思ったが後の祭り。俺は頭を掻きながら、慌てて言葉を取り繕う。
「あー、あの、すみません、なんか失礼な事言っちゃって。俺、隣の兼古っていうんですけど出かけますんで。すんませんでした」
「道成寺君は出かけました」
 涼しげな声に意表を突かれた。道成寺に連れ込まれる系統の女とは思えない、清純な声だったからだろう。
「え、どこかへ出かけたんですか?」
「本当に──しょうがない人。せっかく色々準備して来たのに、あっけなく出かけちゃうんだもん。ほんと期待外れだわ」
 どうやら、女と入れ違いにどこかに出かけたらしい。
「しょうがない奴ですよね。……おっと、俺が言ってたなんて言わないで下さいよ」
 コロコロと鈴が鳴るような笑みが俺の耳をくすぐる。
「そっちに遊びに行ってもいいですか?」
 そのときの俺の顔は、きっと非常に滑稽な見世物だっただろう。あくまで声は平静を装うが、もう片手で手鏡を引き寄せた。白いシャツにジーンズ。まぁいいだろ、部屋着だし。
「ああ、隣の一二一四号室ですよ。汚い部屋ですけど、丁度いま昼飯の──」

 ごぼり。
 女の返事ではなく、水道管が逆流するような音がした。
「ん?」
 今度は遠くで、ざく、ざくと雪にスコップを突き刺すような音がする。スコップが止むと、今度は無くなりかけのケチャップを捻り出す様な水音と、床にゴトゴトと軽い音が響いた。しばらくして、音が止んだ。
「いま、そちらに行きますね」
 息の荒い女の声に、唾を飲み込むような音が混じっている。何か卑猥な響きがあった。玄関へ歩く音がする。扉を開閉する音。何故か女は、道成寺の携帯を切らずに持ちながら部屋を出たようだ。俺の部屋の位置をまだ良く分かっていない不安からだろうか。

 ぴんぽーん。
 俺の部屋でドアチャイムが鳴る。
「はーい」
「ごぶぅボあァァ───!」
 壁の向こうから襲い掛かる化け物の雄叫びのような声に、携帯を置こうとする俺の手が凍りついた。
「道成寺? いるのか? そこに!」
 壁はもう、沈黙していた。
「すいませーん。兼古さん、開けてくださーい」
 ぴぽぴぽぴぽぴぽ、神経を逆撫でするドアチャイムが伽藍の部屋に響き渡る。

 何か、異様だ。

 携帯を握り締めながら恐る恐るドアレンズを覗くと、道成寺の女が立っていた。片手はドアチャイム、片手はドアノブに添えているように見える。春向けの白いワンピースに、ロングヘヤーが清潔な印象を与える。化粧っ気はなく、ただ空ろな目をレンズに向けた女が、薄いクチビルの端から紅い血を滴らせ、胸に鮮血の大寒桜を咲かせたまま立っていた。

 急激に息を吸った俺の喉が笛のようにひゅうと鳴った。或いは悲鳴だった。先程の道成寺の声にも似ていた。
 携帯の通話を切り、殴りつけるように110を叩く。耳に携帯をねじり込む。俺はけたたましく鳴るチャイムの中、耳に全神経を傾けながら、ドアを凝視した。あの鮮血は、道成寺の返り血……か?
 電話が繋がる。しかし、あの「火事ですか? 救急ですか? 警察ですか?」という問いかけは無かった。 液晶画面には、ただ「をんなのてき」と表示されていた。

 ──あの女だ。

 赤いボタンで通話を叩き切る。11を押したところで画面が強制的に切り替わり、「をんなのてき」からの電話を知らせる。叩き切る。しょ、しょ、証城寺。携帯が謳いだす。切る。しょ、しょ、切る。しょ、しょ、しょ。
 切っても切っても、液晶に浮かび上がる「をんなのてき」という文字が、俺を罵倒するかのようにまた浮かぶ。違う、俺は「をんなのてき」じゃあない! しょ、しょ、通話ボタンを押した。
「てめぇ、何考えてやがるんだ! 他に電話をかけさせ」
 通話が切れた。すぐさま携帯が謳いだした。
 俺は絶句した。女が道成寺の携帯を持ったのはこれが狙いだったのだ。他のどこにも電話を掛けられないようにする為に。

 ゥン。不意に冷蔵庫の音が止まる。見回すと、TVの主電源も、ビデオの液晶も、ガス漏れ報知器のLEDも、全てが沈黙していた。ただドアチャイムと携帯が鳴り響いていた。
 右壁のそばのパソコンに目が留まる。
「ネット……!!」
 気づいてパソコンを見るが、モニターも本体も電源が落ちていた。
 ブレーカーを切られた。その事実を目の当たりにして、一段と部屋が狭くなったように息苦しくなった。左壁の道成寺は沈黙している。右に隣人は居ない。マンションの外だ。

 女は道成寺を。
 そして次は。

「そっちに遊びに行ってもいいですか?」

 逃げよう。頭のおかしい女だ。俺はドアにそっと近づきドアレンズを覗く。女は無防備にドアノブの前辺りに立ち、ドアチャイムをとり憑かれたように押していた。魚眼レンズに映る女の体躯は、過度のダイエットで我利我利にか細く、蟷螂のように異様な屈折をしていた。大寒桜が大輪に成長していた。
 その成長に何かひっかかる。さっき電話口で女の返事ではなく、水道管が逆流するような音がしたのは何だったのだろう。道成寺が逆襲し刺したのだとしたら。女は手負い、それも重傷ではないのか。そして道成寺も、そんな逆襲が出来たのならまだ息はあるのではないだろうか。
 俺は息を整え、頭を整理した。
 こうしよう。勢いよくドアを開き、女を跳ね飛ばす。その後は走って逃げながら助けを呼ぶ。非力そうな女だから決して難しい話ではない。何より重要なのは、こいつと係わり合いにならないことだ。
 ──待てよ。こめかみに滲む汗を拭きながら、危険な直感が囁く。ブレーカーを切り、こんな状況で冷静に携帯を持ち歩く女だぞ? もしかして準備万端で待ち構えているかもしれない。
 踵を返し、台所でキャベツの隣で転がっていた菜切り包丁をひったくる。ドアの前で息を整える。まずは力を込めてドアノブを一気に回し、体ごとドアに体当たりする。よし……今だっ!
 びし。と。手が、俺の意思に反してドアノブから飛び退いた。ドアノブを握り締めた俺の手が、危険を察知して腕ごと飛び退いた。電流……? いや、これは……熱い?
 コロコロと鈴が鳴るような笑みがドアの向こうでさえずる。
 俺はドアを思い切り蹴った。さえずりは止まない。こいつ、ドアノブを向こう側からライターか何かで炙りやがったんだ。回さなければ開かない。くそ、くそ、くそ!! 俺は何度もドアを蹴った!
「こうすればそんなもの……!」
 シャツを脱ぎ、ドアノブに絡め、捻じろうとした刹那──

 かたん、と扉が軽い音を立てる。扉は開いていない。しかし、どぷどぷとプラスチックの郵便受けから水音がする。まるでそれ自体がバケツのように。
「おい、何をやってる?」
 郵便受けから溢れた汚い水が、靴ごと俺の足を濡らす。自分の靴下が汚い水に濡れてぶちゃぶちゃと嫌な音を立てる。おぞましい感触。灯油臭い。自分の足元が、灯油に浸る。狭い土間に脱ぎ捨てられたスニーカーが、灯油に押し流されて端に漂う。
「ひ!」
 情けない悲鳴を上げ、靴のまま玄関を上がった俺は、確かにあの聞き慣れた音を聞いた。あの懐かしい音。花火の燃え始め、いや、道成寺の部屋で奴がタバコを咥えた時の、あの、

 マッチを擦る音。

 間髪入れずに郵便受けからオレンジの炎が噴出し、俺の鼻先を掠める。
「うわっ!」
 目を開けると狭い土間を炎の緞帳が包んでいた。土間に溢れる灯油に濡れた、玄関マットがパチパチと燃える。ビニールの焦げる臭いがする。しゅるしゅると黒煙が立ち昇る。白い壁が見る見るうちに狐色になり、すぐに紅蓮の炎に飲み込まれる。ドアノブに巻いたシャツを飲み込む。天井に届いた炎が、腰が抜けて座り込んだ俺に覆い被さるように見下ろし、天井をじわじわとオレンジ色に染めていった。
「何……何……何が起こっているんだ?」
 天井が燃える度に塗料が弾け、紅い粉雪となって降り注ぐ。灯油で描かれた俺の足跡が燃え始める。まるで火達磨の透明人間が歩み寄るように、炎の足跡が俺を追い立てる。後ずさりながら灯油浸しの靴と靴下を脱ぐ。投げ捨てるや否や、紅い粉雪が触れた靴が、靴下が、炎に包まれぶすぶすと床を焦がした。
 勢い良く竹が破裂する音と共に、ドアのプラスチックの郵便受けが弾けた。
「熱つ!」
 裸の上半身に焼けた破片が襲い掛かる。中に残っていた灯油が部屋に溢れ出し、赤黒い波が押し寄せる。さっきまで俺がいた位置の座布団や机、横の本棚やTVもビデオも燃え始めた。

 この部屋を捨てる。もうそれしかない。
 振り向くとベランダの向こうは春の空だった。焦熱地獄と化した部屋を駆け抜け、ベランダへ走る。勢いづいた俺の体が、手摺にしたたかに腹を打って止まった。
 涼しい強風が頬と背中を撫でる。ここは十二階で飛び出せない。生まれて初めて出すような大声で助けを呼んだ。叫んでも、叫んでも、公園の母親連中や子供たちは気づく様子も無く、土いじりを続けている。闊達に走る車のエンジン音が途切れない。昼間の喧騒は、悲鳴をかき消した。
 手摺を睨んで落胆する。高層マンションの腹の高さの手摺が、牢獄の壁が如く呪わしい。
 ふと、目線が手摺を右へ伝う。ベランダは同じ階で地続きになっていて、発泡スチロールみたいな板が仕切っていた。
 ベランダ伝いに隣へ行けば……!!
 俺の部屋は建物の端だ。道成寺の部屋のベランダへ行くしかない。仕切り板を突き破れば道成寺の部屋のベランダに出る事になる。
 一瞬、扉の向こうの女の顔を思い出す。空ろな目の狡猾な女。いつの間にか汗びっしょりになった背中に、冷えた汗が一筋流れた。
 天井の電灯が爆ぜた。部屋はガラスの破片を探す事が困難なほど、火炎の宴が繰り広げられていた。黒煙がベランダに噴出し始めていた。
 迷いを振り払うように菜切り包丁の柄を握り締める。あの女、何か罠を用意しているかもしれない。しかし、このままでは黒焦げになる。覚悟を決めろ。
 気合一閃、仕切り板をぶち破って身構える! 女は部屋の中に居た!

 足の裏に、ぶよぶよした肉を踏んづけたような感触。
 脂肪で出来た靴下に、足指の先を差し込んでいるような生暖かさ。
 女の華奢な指先が俺の足元を指す。薄いクチビルの端を吊り上げた。
 やめろ。意識させるんじゃねえ。見てしまう。見てしまう。足元を指すな。

 ベランダに広がる赤い水溜り。俺の体重で絞られた血がジーンズを膝まで濡らすほど溢れ出し、彼の顔をも染めていた。
 刃物でカッサバかれた喉元を、裸足で踏み付けていた。彼はもう、痛がらない。
 そこに、居た。道成寺の死体が。

 俺は声にならない叫びをあげた。手から包丁が滑り落ち、雪にスコップを突き刺すみたいな音と共に道成寺の腕に突き刺さる。叫ぶ俺に女が体当たりする。

 俺はベランダのステンレスの手摺に両手でぶら下がっていた。
 女は空ろな目で俺を見下ろした。その蒼い顔よりも俺の目を惹きつけたのは、ワンピースの胸元が緋色に濡れしぼむ様だった。寒緋桜からはオシベの様に、白い刃が突き出ていた。後ろから刺されたまま、ずっと立ち回りをしていたのだ。
 その怨念。心臓がきゅうと萎縮した。

 女は清流で水を汲むように両手で血溜まりを掬い、俺の手に振りかけた。花蜜で俺の顔が肩が腹が道成寺の血で染まってゆく。
「!」
 滑る。手が滑る。手で血を拭おうとするが、女にはその様子が手にとるように見えており、拭う手も腕も満遍なく濡らされる。
 ずるりと不気味な音がして滑り落ちる。夢中で鉄柵にしがみつく。目の前に、さっき踏み付けた道成寺の顔があった。おびただしい道成寺の流血は血溜りになっていた。上を向いた道成寺の顔から目玉が飛び出し、おたまじゃくしの様な目玉だけで俺を睨んでいた。
 女が波間で戯れるように素足で蹴飛ばす血液が、恐怖で見開いた俺の目を潰した。
 指を蹴られる。落ちる。落ちる。赤い地面に向かって。全身の血液が逆流する。
 何かに掴まろうとするが見えない。何かが足に引っかかる。痛い。足指が骨折したみたいに痛い。
「ば」
 背中から全身に衝撃が伝播する。頭が反動で動き、前歯で下唇を血が滲むほど噛む。肺の機能が停止したように呼吸が止まる。
「ガッ………………」
 苦しいと叫ぶことも出来ず、陸に揚げられた鯉のように口をぱくぱくさせた。

「飛び降りだ!」
「血、血まみれだ!」
 空ろな逆さの視界。人々が駆けつけてくる。
「しっかりしろ!」
「意識はあるな」
「布団にもみくちゃになっているのが幸いしたみたいだ」
 そうか……俺は……
 不意に誰かが叫んだ。
「あ、あぶない!」
 風を切る音が止むと、重い物を腹に叩き付けられた衝撃を残し、何も感じなくなった。瓦が割れるような音を立てて肋骨が折れた。俺の腹が裂け、盛大な血飛沫が飛び散った。
 頭から落ちた女の首はねじり折れ、背中からは長いナイフの柄が生えていた。俺の破裂した腹と、女の首からとろみのある赤い濁流が零れ出し、白い布団に紅の花弁が開花する。

 俺の胸を枕に眠る女の顔が、苦渋に満ちて悶絶したまま凍て付いていた。
 なあんだ。ひどい形相だが、可愛い彼女ぢゃあないか。
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