(土) 00:00 公開作品
 あまり腹の満たされない三月の定例会も終わり、久々に中島さんと飲みに行く事になった。
 一段と丸みを帯びた顔を、後ろでまとめた髪留めが引っ張る。お相撲さんだった。自分も、腹の出っ張り具合では負けていないつもりだ。
 酋長の店は、前触れも無く閉店したという。ドアにいつも額がぶら下がり、エスパー真美のヌードシーン原稿が出迎えてくれていた。もう安物のブリキの取っ手を回しても、開かなくなっていた。
 体を横にしてやっと入れる入り口を抜けると、マンションの玄関ぐらいのスペースにカウンターとチェアが横たわる店内だった。まるで押入れの布団に潜り込んだように、狭くて暗くて温かい隠れ家だった。壁の選挙ポスターから微笑む、月亭可朝の笑顔が忘れられない。

 中島さんがもう一つ、最近出入りしている変な店を案内すると言う。酋長も大概であったが。ゴスロリちゃんや若い子も多いと言う。それは珍しい。とうとうネタ切れか、一般向けの店を紹介せざるを得ないという事だろうか。
 入り口の横に、黒いボンテージに身を包んだ白いマネキンが立っていた。 入ると、赤暗い部屋だった。三十前後の男女がカウンターに座り、備え付けのモニターを眺めている。モニターにはブランコしている人の映像。ただし、公園には無いタイプのブランコだ。肩の皮膚に巨大な釣り針のようなフックを何本も食い破らせ、ゴムのように伸びた皮膚を引き千切りらんとする様に、ぶらりぶらりと画面の左右を行き来する。フックの根元からは冗談みたいな量の流血が溢れ、背中をしとどに濡らしていた。背中にも赤い血が流れている事実を突きつける儀式。
 マスターはヘビメタ的な容姿だった。綺麗に剃りあげた丸い頭に、側面から長い髪が襲い掛からんとするかの如く被さる。
「どうぞ。カウンターへ」
 営業スマイルはしなかったが、人当たりは悪くなかった。
 見回すと爬虫類が蠢く水槽が、コンクリートブロックの壁に犇めき合っていた。
「!”#$%&」
 中島さんは何か飲み物を頼んだ。自分も頼んだはずなのだが、モニターを凝視するのが精一杯で、すっかり忘れてしまった。どうも自分は、強烈なイメージに遭遇すると、それ以外の事柄を一切覚えられないようだ。中島さんがモニターに写るブランコ行為の正式名称を教えてくれた筈だが覚えていない。マスターと二人で、皮膚は丈夫だなあという話をする。
 モニターの人物は全員外人で、地下パーティーという風情だった。泣き出してしまう女性と、それをなだめる男性。よろしくやってるよ、と笑顔でカメラに答える男女。
 まだ早い。虚勢や酔狂だけでしている訳では無いだろう。そう決め付けるのは時期尚早だ。そして、変態的性嗜好というわけでも……多分無さそうだ。いかん、ぐらぐらして来た。常識など幻想に過ぎないと分かっていても、この強烈なお出迎えには足元がぐらつかされる。
「このビデオで使ってるフックは6mmですね。えーと、これと同じですよ」
 ごとん、と木のカウンターに置かれたフックが軽い音を立てる。手に取ると、掌サイズに鉄の重さを感じる。片仮名のコの字型をしていて、一端は小さい円弧状に丸めてロープを括り付けられる様になっており、もう片端は独楽の軸先みたいに鈍く尖っていた。これだけ鈍い尖り方では、どうやっても皮膚には突き通らなそうである。
「始めに錐で穴をあけて、そこに刺すんですよ」
 心が読めるのか、幾度となく同じ質問をされたのか、軽快に説明するマスター。
「自分のときは腕でやったんですけどね。自分は痕が残らない体質なんですよ」
 あんたもやったんかい。腕には確かに傷が残っていたが、虫刺されと言われても分からない程度だった。
 マスターが、始めから居た男性客を軽く紹介する。彫師だという。なんだか握手する事になる。ふんわりと軟らかい掌だった。手を離した後になって、袖口から刺青が覗いている事に気がついた。恐らく、腕や背中や胸も刺青に覆われているのだろう。
 そろそろ店を出るとの事で、丁度夏向け作品で刺青を扱うこともあり、リアリティを求めて一つだけ質問をさせてもらった。
「手の甲や腕に刺青すると、やっぱり痛いものなんですか?」
「そうですね。肉が薄い、骨が出っ張っている間接とかは痛いですよ」
 御礼を言いながら、こんな事なら色々予習しておくのだったと舌を鳴らした。
去年に描写した手の甲の刺青は、少々言い訳を考えねばならないようだ。男女は退出していった。

 マスターは興味ありげな私の様子に偏見じみた匂いがしない事を嗅ぎ取ったのか、三冊ほど写真集を見せてくれた。一冊は同じ内容の日本語版なので実質は二冊分だった。表紙は全身刺青の男。図書館で何々民族の刺青という写真で何度か見た事があるので、さほど抵抗は無い。
 表紙をめくった冒頭、口の中に拳骨を入れた人の写真。SMAPの香取信吾がやってたなーとか能天気な事を考えていると、マスターが補足してくれた。其れは口に拳骨など入れていない。入れられないのだ、手首を切り落としたのだから。間髪入れずにマスターが説明する。
「その人は、以前からずっと右掌が在る事が、変で変で仕様が無かったんです。掌が無いほうが自然だ、こっから先が無い方がかっこいいじゃん、と」
 切ったわけです、と左手で右手首を切る真似をする。
 そうか、衝動なんだ。衝動という言葉は衝動買い、という悪い固定イメージがあるので補足すると、その人の情熱的な美意識だという事になる。性同一性障害に近い心理だと思った。自分の記憶によると、性同一性障害は心の性と、生物学的な性とが異なってしまう症例で、病気ではなく「自分の肉体性別に対する違和感」だ。自分の意志で手首を切り落とした人は「自分の手首から先に対する違和感」を無くすため、これを行ったのだなと得心した。