(水) 00:00 公開作品
「たのも──っ!」 樫の扉を強く打ち付けるコブシは、ラウラの迷いの無さと強い意志を感じさせた。
「出て来なさいオリベ! 今日こそ決着つけてやるわ!」
 居るのは分かっている。居るに決まっている。強い思い込みを秘めた瞳には、事実がどうあろうと、扉の向こうに薄笑いを浮かべたオリベが映っているのだろうか。

 春の朝。石造りの町並みは、スラムとは思えないほどの重厚な歴史を積み重ね、うず高く降り積もった埃がそのまま化石となったかのような黴臭い色合い。街行く人々には気づかれないまま、即博物館行きモノの化石の一つや二つ、石の中に練りこまれているとしてもおかしくない。穏やかな死を感じさせる石の街を、叩き起すような──けたたましい音が響き渡る。
「ナポリの秘儀を身につけた私は、一味違うわよ!」
 ラウラのコブシが更に引き締まる。樫の木で作られた扉の悲鳴が、より高く響き渡る。ツインテールに結わえた髪が、その度に揺れる。
井戸端奥様A(何かしら何かしら)
井戸端奥様B(きっと別れた女よ別れた女)
井戸端奥様C(やだわやだわエッチな事?)
「そこうるさい」
 外野に突っ込むラウラ。
 不意に金具の外れる音がした。重い樫の扉が開く。
「はーい」
「!?」
 ラウラの眼前に現れたのは、決してよれよれのワイシャツにだらしないネクタイのオリベではなく、まさに湯上り然といったバスローブ姿の金髪碧眼の美女。桃色に火照る肌から立ち上る湯気は、否応にも女性の色香を匂い立たせる。割と巨乳。
 それはラウラにとって、意外すぎる出迎えであった。
「だっ 誰よあんた!」
 ラウラの声が、思わず一オクターブ高くなる。
 少々むっとして、バスローブの女が返答する。
「あなたこそ誰よ?」
井戸端奥様A(あらあら中からも出てきたわ)
井戸端奥様B(きっと二股よ二股よ)
井戸端奥様C(修羅場だわ修羅場だわ、いつ始まるの?)
「見せもんじゃねーぞ!」
 激しく突っ込むラウラ。
 その様子を見て、バスローブの女に思い当たる節。
「ああ! あなたラウラさんね?」
「何で私の名を?」
「見るからに生意気そうなツインテールが来たら、適当に追い返せって言われてるの」
 言伝を一つ片付けた事に屈託の無い笑顔がほころぶ、バスローブ。
「……ほーう? そのお願いをした本人はどこに居るの?」
 危険人物扱いされ、眉と眉の間に川の字を作るツインテール。
 そんな不機嫌さんを目の前にして、臆する事無く人懐こい笑顔で自己紹介をする。
「私は靴職人見習いのヴィレッダ・インパラート。留守番を頼まれたの。オリベさんはロンドンへ行ったわ」
「ロンドン!?」
井戸端奥様A(ロンドンですってロンドン)
井戸端奥様B(まあ逃げたのね逃げたのね)
井戸端奥様C(ところでロンドンってどこの店?)



王様の仕立て屋 ~サルト・フィニート~ 五巻 大河原 遁

<order25 不朽の男>



 よれよれのワイシャツにだらしないネクタイの男。
 丸縁のロイド眼鏡には特徴がある。普通の眼鏡だと、レンズの縁と耳にかける蔓の接合部分で斜め前方の視界が悪くなるのだが、邪魔にならないよう下に迂回する形に曲がっている。
 オリベは本に目を通しつつ、雑多な物思いにふける。
 ロンドン・ウエストミンターに老舗のテーラーが軒を連ねるサヴィル・ロウは注文服の聖地である。場末にいると変な注文が舞い込むので、イギリス仕立ての真似事をしたこともあるが、芸の肥やしにやはり一度は本場の技術に触れてみたいと、彼は常々思っていた。
「Beef or Chicken?」
「Chicken」
 だからこそ彼は、イギリス貴族ウォーレン卿から招待を受けた時、渡りに船とばかりに乗ってしまったのだが……
「今夜の予定、教えてくれる?」
 ……って、
「つくづく何でてめーがここにいるんだ!」
 マルコの頭を横方向からぐいぐい潰すオリベ。
「貴族のフトコロは探る為にあるのだよワトソン君」
 唇がほっぺた肉ごと潰され、くちばしみたいになるマルコ。
 マルコは靴磨きを生業とする少年で、オリベのアパートに居着いている。留守番を申しつけられたのにくっついてきたすばしっこさを見ると、さすがオリベが小動物と呼ぶだけのことはある。
「……ったく」
 小動物を投げ出し、鼻からため息をつくオリベ。
「それにしても、ファーストクラスに乗ったらスッチャデスさんがついて来るって、やっぱウソなのか」
「……どこで聞いた? そんなファンタジー」

 ロンドン国際空港。
「ロンドンへようこそ、ミスターオリベ」
 生粋のイギリス英語。スーツ、時計、爪の切りそろえ方、カフスボタンの完璧な手入れ。イギリス貴族・ウォーレン卿の、ただオリベに握手を求めるだけの立ち居振る舞いにさえ、たかだか数十年風情の歴史しか持たぬ成金には到底出せない、堂々たる風格があった。
「お招きに感謝します、ウォーレン卿」
「空の旅は快適だったかね?」
「ええ、エコノミーに比べたら別世界ですね。……おい、お前もお礼申し上げろ」
 頭をひじで小突かれた小動物は、通訳の紳士の袖を引いて離れた位置へ行く。なにやら小声で打ち合わせ。
(そうじゃなくて、こんな感じに。もう一度、さん・ハイ)
 どうやら打ち合わせ終了──
「ようようようすごいっ!
 しがねえ靴磨きのオイラが、ファーストに乗れるなんざァ御利益御利益!
 御恩は七生忘れやせんヨイショ!」
「ははは面白い子だ」
「興味を持たないで下さい……変な事ばっかり覚えやがって」

 ウォーレン卿の車にて移動するオリベ一行。
「それで俺は何をするんですか?」
「ん?」
 注がれたワイングラスに口をつけず、手のひらで転がして香りを楽しむオリベ。
「いくら貴族様のフトコロとはいえ、イタリアでの商談がまとまったご祝儀に、海外旅行は過分でしょう? むしろイギリス貴族を騙くらかしてイタリア仕立てを着せた日本人を、地元に誘って仇を討とうって魂胆じゃござんせんか?」
 グラスを傾けるウォーレン卿。ワインの喉越しを味わいつつ、意味ありげに微笑む。
「そう警戒するな。私は聖人ではないが、そこまで陰湿なつもりも無い。
 ──しかし、観光だけで招いた訳でもないから、半分は当たりかな」
「おおおロンドンだブリテンだキングダムだピカデリーだセントジェームスだバッキンガムだ」
 カメラを持っていないので、とりあえず目に焼き付ける小動物。
「じゃあ、先にそれを片付けちゃいましょう。滅多に無い機会だ……観光の時間、なるべく欲しいですからね」
「さて、簡単に片付くかな……」

 美術学校の校門。ウォーレン卿は、一人の人物を受付で呼び出す。
「服飾学の権威、モンロー教授だ」
 紹介された紳士は初老で、知的で温厚な印象をオリベに持たせた。
「サヴィル・ロウの事情に精通しているから、ガイドを頼むといい」
「宜しく」
「こちらこそ」
「詳しい事情は彼に聞いてくれ。私は次の予定があるので、これで」
 オリベ・小動物・モンロー教授を残し、ウォーレン卿は悠々と去っていった。
 小動物は不服そうに鼻を鳴らす。
「あれ? 帰っちゃうの? ……何だよ、事の説明する時間ぐらいあるだろうに」
 オリベはたしなめて言う。
「イギリスは未だに階級制度があるが、殆どのイギリス人は不自由を感じていない。各々の階級にそれぞれの誇りがあり、他の領域に野心が無いからさ」
 モンロー教授に向き直り、言葉を続ける。
「貴族が退場したって事は、平民の問題かい? 教授」
「ご明察です」
 オリベに対し、一角の信頼を置いたように微笑む教授。
「実は、ミスターに逢って頂きたい方がいます。サヴィル・ロウ一、いや世界一と言ってもいいウエストコート職人です」
「世界一?」

 ロンドンの街並み。二階建てバス、地下鉄ホームへの階段の穴。
 一向は、徒歩でごみごみした街中へ向かう。
 こっそりオリベに話しかける小動物。
「なんだい、ウエストコートって?」
「十九世紀。馬車の案内人のチョッキから発達した防寒着で、早い話がベストの事だ。イギリスでスーツと言えば、ベストを含むスリーピースが本式とされている。暑いイタリアでは需要は少ないが、第二次世界大戦までは冬場に三つ揃いは常識だった。しかし、生地をスーツより隙間無く肌に沿わせるのだから、作るのに技術が要る」
「これからお逢い頂くパウエル親方は、まさにその達人です。
 “パウエル親方のウエストコートは血が通っている”
 と言われる程に、イギリス中から絶賛されていました。
 ……紳士の街サヴィル・ロウも、親方に限っては引き抜き合戦が起こったほどです」
 顔を曇らせる教授。オリベは、ここいらが核心かなと当たりをつける。
「契約金も天井知らず。当然単価も暴騰しまして、ウォーレン卿を始め、何人かの貴族が調停に入って、どうにかサヴィル・ロウも落ち着きを取り戻しました。以来、親方は個人の注文を受けながら、サヴィル・ロウの御意見番として後進の指導に当たっていたのですが、ある日突然引退を宣言して場末に引き籠ってしまったのです」
「そんで、俺は何をすりゃいいんです? まさかその人の現場復帰を説得しろってんじゃ……」
「説得はもうやり尽くしました。ところが藪をつついて蛇が出たと申しますか……」

 下町。ちらほらと色彩豊かな新しい店が望めるものの、昔から変わらない野趣で暖かい雰囲気は、干した洗濯物や、店先の猫のあくびにも見て取れる。
 労働者階級の人々が集うバーに足を踏み入れると、客の白い目を一身に受けた。
 薄暗く黴臭い酒場の壁や天井は、コケのように緑がかった木目の板。照明は右の壁に一つだけある曇りガラス窓からの淡い光だけで、重くまとわりつくような空気を一層陰鬱なものにしている。左の長いカウンターや部屋に点在するテーブルには、労働者風の古ぼけたジャケットに身を包む客が一・二十人ほどがおり、その全ての眼差しが、招かざる客に向けられていた。
 沈黙の迫力。小動物は、本能的に危険を察知する。
「それじゃボク、テームズ川の巨大観覧車見に行って来まーす」
 むんずと小動物の襟首を掴むオリベ。
「言葉も解らねえのが、迷子になっても面倒だ」
 酒場の男の一人が、教授の顔に一瞥をくれ、店の奥のカウンターに向かって声をかける。
「おーい親方! 教授がまたいらっしゃったぜ」
 店の奥のカウンターに一人。小動物を引きずるようにして、オリベたちは店の奥の男に歩み寄る。
「なんだい、今度は東洋人か? とうとうサヴィル・ロウに人がいなくなったか」
「初めましてパウエル親方。ナポリ泥棒市のユウ・オリベと申します」
「フン、見りゃ解らあ。誇り高きジョンブルが、そんな間抜けなジャケットを着てるかよ」
「……(あら~ご挨拶)」
 ジョンブル──典型的な英国人であるパウエル親方は、バーを見渡せばどこにでもいるような労働者風のジャケットを羽織り、ウィスキーに浮かぶ氷を眺めていた。初めてお目にかかる親方とはいえ、小柄な男という印象があった。
「人が悪いぜ、先生。俺がイタリアを嫌いだと知ってて、こんな野郎連れて来たのか」
 じろりとねめつける親方の視線に、教授は毅然とした態度で答える。
「ウォーレン卿が直々に、ナポリで見つけて来て下さったのです。聞けばその昔、ナポリにその人ありと言われたマリオ・サントリヨが、唯一認めた弟子であるとか。きっとミスターの課題を、クリアしてくれると信じております」
「ほう……“ミケランジェロ”マリオの……」
 マリオ師匠の名を聞き、初めてオリベたちに向き直った親方を見たオリベは、イギリスにも聞こえる師匠の名に誇らしくもあり、マリオの弟子という文言でも名刺に刷るか。名前より大きくな、と苦笑いした。
 親方の顎は教授を示す。
「若えの。この先生はな、とっくにリタイアした俺を、また現場に引っ張り出そうと必死こいてるんだ。“サヴィル・ロウも後継者不足で頭を痛めてる。俺の力はまだまだ必要なんだ”ってな」
「お見受けした所、まだお元気そうじゃござんせんか。リタイアにゃまだ早くありませんか」
「大体の事ァその先生に聞いたろう? 人を競りにかけるみてえに値を吊り上げ、採算合わねえ額になるや談合して、勝手に殿堂入り扱いにしやがってよ。お陰で俺あ、どこの工房にも入れず貴族の捨て扶持で後継育成の毎日だ。──早い話が、ヒヨっ子のオムツ番よ」
 曇りガラスの窓。
 まくし立てた言葉を切り、グラスを眩しそうに眺める。
「職人の技術は教えたって身につくもんじゃねえ。先達の肩越しに、手先を覗き見て盗み取るもんだ。大学みたく単位さえ取りゃ店を出せるような了見の連中、相手するのにうんざりしたんだ」
“CHIEF TAINS”ラベルの瓶をグラスに傾ける。
「それでもこの先生、しつこく追って来るもんだから、言ってやったのさ。
 “俺がこの場で出す課題を、解決できる職人連れてきたら、話ぐらいは聞いてやる”
 とな。どうでえ、受けるかい日本人? 出来れば良し、出来なければここの飲み仲間の酒代に、有り金置いてって貰うぜ?
 ──楽しい観光で思い出作りてえなら、このまま帰って二度とここへは近づくな」


 この辺で彼は星になりました……。