(日) 00:00 公開作品
「ストーカーの恐怖」:夕街昇雪

 丸いつまみを時計回りに回す。雑音。反時計回りにミリ単位で回す。
 チューニングの微調整が進むにつれ、スピーカーから漏れる声が女の声であることに気づく。女性でハム無線をやるのは珍しい事だった。

「ミュィ…聞こ…すか? …え…ビュィイ…ま…聞こえますか? こちらZAH2MKR、ZAH2MKR、助けてください、殺されそうなんです!」

 カップラーメンを啜る箸を捨て、耳を覆うヘッドフォンを手でしっかりと押さえつけた。

「今、家に帰ってきたところなんですけれど、さっきまで職場の本屋にいました。……今日もアイツが……あの男が来てたんです。客として。でも。……でも、あいつは客なんかじゃない。ストーカーです。私の家に近づいてくるんです!!」

 周波数を見ると、個人趣味用のハム無線に割り当てられた帯域だ。ビンゴ。最近は警察無線でも飛行機無線でも、取り立てて面白い会話が成されなかったが、これは……。
 仮に電波な──文字通り──電波な女の戯言だとしても、こいつは面白い。

「……最初は、小説をたくさん買う客だなぁって思っていただけの、うちの店の常連だったんです。毎週月曜の夕方に必ず来て、一冊の文庫本を買う人だったんです。会社帰りのサラリーマン、といった特徴の無い風貌でした。
 それが……ある時、珍しく土曜の朝に来店して、今までうちで購入したことの無い雑誌を購入したんです。それはハム無線の月刊雑誌でした。レジの値段表示を見ずに千円札一枚を取り出したので、毎月購入しているのかも知れません。これは恐らくですが、いつもは別の本屋で購入しているのに、その日は雨が降っていたので、駅から屋根伝いに来れるこの本屋で購入する事にしたのでしょう。
 その事を覚えていたのは、普段と違う行動だからというだけでなく、私もハム無線をやっていたからです。その雑誌は私も購入していましたし、いずれは交信することが出来たら面白いな、とさえ思っていました。ハムで交信する前にお互いの顔を知っているなんて、そんな事は初めてでしたから。
 ……でも、これは後々の不気味な変態的行動への伏線、その序曲に過ぎない小さな異変だったのです。

 次の週明け、月曜の夕方。その客は文庫本を買わず、世界地図を購入しました。いつもは探偵小説、それも猟奇殺人ものを一冊買う客の異変に、少しだけ興味をそそられましたが、それ以後月曜の夕方ごとに日本地図、O県地図、そしてP市の建物の配置が詳細に図示されている地図を購入していきました。
 それだけなら彼をストーカーだとは決め付けたりしません。そして地図を色々購入したからといって、何も異変を感じることはありませんでした。……異変を感じたのは、その客がある男性作家のエッセイ本を購入した頃からです。彼は簡単に出来る料理の本、ドラマ脚本の本も購入しました。女性には人気があるが男性には全く理解できないと言われる、そのドラマの本をレジで受け取ったとき、背筋が寒くなり、恐ろしさで歪になった笑顔を悟られないようにするのに精一杯でした。だってそれらは一つ一つ、その前の日の日曜に私がハムで喋る際に紹介した本だったからです。
 私は恐ろしい想像をしていました。彼は既に私のラジオじみた呼びかけを聴いていて、電波を辿って私の自宅を突き止めている。そして本屋の店員であるということも知っている。これだけでも相当に異常な精神ですが、背徳的な快楽はより強い刺激を求めるのか、とうとうそれに飽き足らず、その変態的な好奇心は一つの加虐心となって私の心を責め立
てようというのです。
 ……そう、私にそれとなく気づかせようと、段々に徐々に、日本からO県、O県から市へと私の自宅の在り処を特定していることを本と時間で方向性を作り出し、ベクトルとして指し示し、無線を通した声から私の趣味嗜好を知った事を堂々と私の前に曝け出しているのではないでしょうか。
 私はおかしいのでしょうか……? 働き過ぎで疲れが溜まっていて、強迫神経症的な妄想に囚われているのでしょうか?
 ……それならばまだ良かった。少し仕事を休んで、病院に行って、お医者さんに相談すればなんとかなる筈ですから。でも、違うんです。二・三医者を訪ねましたが、どのお医者さんも、少し休めばよくなりますよと言われただけで、健常だという判断を下されました。余り物事を気にしないほうがいいと言われました。又来て下さいと言われましたが、病名もなく薬も出さない病院に、わざわざ行こうとは思えませんでした。

 でも。これが妄想ではない証拠があるんです。ここにあります。二週間前に届いた手紙です。住所も書かれていない、切手も貼っていない、明らかに自宅に訪問してドアの郵便受けに突き刺したメモなんです。怖いけれど……読みました。そこには、どうかドアを開けてください、とだけ書かれていました。
 私はぞっとしました。窓という窓を締め、電灯を消しました。布団を頭から被り、震える体を抱きしめていました。もう怖くて外に出られません。仕事にも行けません。携帯も料金未納で止められて、食料ももう底を付きました。ここに閉じ込められて五十日……もう正確な日数が分かりません。誰か助けて下さい。このままだと殺されてしまいます!

 !! 今、ドアを叩く音が! 聞こえますか? 聞こえますよね? 開けろ、開けなさいとドアが乱暴に叩かれています。怪しい者じゃありません、心配だから様子を見に来ました、そんな事をのうのうとよく言えたものです。しきりに呼び鈴を押していますがベルは鳴りません。うるさいから切っておいたのです。あの耳障りな電子音を聞くたびに、私の頬骨に当たる筋肉が、ピグピグと痙攣するからです。
 私の生活を……仕事を……奪った報いを受けさせてやります。ええ。大丈夫。決してしくじりません。出刃包丁を右手に携え、ドアに向かうのです。ドアは向かって右に取っ手があるので、左手で鍵を外し、左手でノブを回すのです。右手は包丁が死角になるように、右の壁に手を添えるのです。そしてドアを開いて彼が一歩歩み出たら、へそを下から突き上げるようにして出刃を捻り込みます。
 大丈夫。しくじりません。食料はもう尽きました。また補充しないといけませんから」