(水) 21:36 感想
釜ヶ崎の事なんて、金を払って読みたいと思わないだろうしなぁ。

それでも、自分だけでもこの本を評価したい。
2008年に読んだ中で、最も優れた文学作品だった。
「私の男」はまぁ、別腹で。
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ニッポン釜ヶ崎<大谷民郎>
大阪のスラムと呼ばれる釜ヶ崎。高度経済成長を支えた人々が強いられた最底辺の生活と日常を、実際にそこに住んでいた大谷氏が鮮烈に描写している。
黒岩重吾、ミヤコ蝶々の推薦もうなづける。

「プロローグ」P34より

 しかし、食えないからと死んだものをだしてはいない。長屋はうまく出来ていて、そこまで落ちると、いい方法がいくらでも目の前に出来て来る。手足や顔に鍋ずみなどをなすりつけて、髪を乱し、ボロは専門の貸し屋があり、それをまとって、一心寺か天王寺の境内に坐るのである。生まれて四、五ヵ月位いの子供がいれば好都合、その子も貸してくれるところがある。ただ、坐って頭をさげているだけで、喜捨にありつける。
 芝居の衣裳部のように、身につけるボロなど、行者や遍路などに化けられる物まで賃で貸してくれる重宝な店舗があり、商売として店を張っている。
 足の満足な奴は松葉杖を使う。この杖も借り物だ。ひどいのはいざり<﹅﹅﹅>の箱車に乗って、子供に先引きをやらせる。夕方、帰って来て顔さえ洗えば、なんの働きにしても、働いて来たことに変わりがない。子供の借り賃、いざりの車代を少々払ってもあとにいくらかでも残る。頭をさげて頼みまくって借りるよりは、この方が気が楽で良い。これをやったからといっても長屋ではどうこういわない。

たくましいなぁ(笑)
……とはいえ、好きでこういう生活をやっているわけではなく。
なんつーか「鬱屈と漠然とした不安、自己否定」の悪循環に陥って手も足も出ず、結局底辺の暮らしから抜けられなくなっているように思える。
というのも、景気が悪い時ってお金がないから気持ちがふさぎ込むのだけど、逆に気持ちが滅入っていると購買意欲が湧かない→お金が動かない→より景気が悪くなる、という側面もあるからねぇ。


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「子を預り屋」のエピソードが凄まじい。
話は松島遊郭の天神裏・東雲楼という遊郭から話から始まる。
(松島遊郭は今の松島料理組合、赤線時代の風情が残る花街)
女郎は借金の形<かた>に売られ、楼主にピンハネされ、病院で何度も子を堕ろし肉体をボロボロにして金を返していく。

「子を預り屋」より

 島が流れて
 病院焼けて
 親方(楼主)コレラで死ねばよい。


ある日、一人の女郎が一人の男に身請けされることになった。
奇妙なことに、年期(年季)をあと半年残したところで……。
女郎の名は梅島(本名の滝子から滝島とも)。大阪の遊郭には珍しい東北出身の女。
男の名は黒木団次郎。遊び人でやくざ者と蔑まれた車夫である。

 団次郎は、あとの半年の年期が待てなかった。年期が明け、自由になったものを迎えるのでは気持ちが許さない。真実のあるものを通さねばならぬ。前借りと年期のまだ少しでもあるうちに迎えてやろうと、待ってさえいればやって来るものを、いくらかでも金を積み、無理をして梅島を今日迎えることにした。働きに働き、どうにかそれだけの金をまとめた。


黒木団次郎が、普段はお大尽の旦那衆を載せる人力車に妻を乗せて疾走する。
つい先ほどまで松島遊郭の女郎・梅島だった、滝子を。

人力車が千代崎橋に差し掛かる。
滝子にはなじみのあるポンポン船の音。しかし、船を見るのはこれが初めだった。

「さあ、みろよ。五年もいた松島だ。もう見ることもなくなる島だ」
「はいッ」


なんとも美しい、真面目で真っ直ぐな人々だ。
古き良き時代の人情話。美しい情景。

かと思えばお市とお末の隣人姉妹のエピソードが折り重なる。
物語は次第に狂気と猟奇が交錯していくのだが……えげつない話なんだこれが。
草は歌っている草は歌っている
(2007/12)
ドリス レッシング

ノーベル文学賞作家ドレス・レッシングの「草は歌っている」に匹敵する文学作品だと思う。これは凄い。


「ラーメン屋騒動記」もいい。

 そのホルモン焼きは、釜ヶ崎が発祥の地なのである。
 鉄板上に内臓を山のように積み上げ、じりじり熱を加える、ソース、醤油、香辛料をふんだんに入れる、ぐらぐらするものを何度も引っくり返す、時間をかけているうちに、油脂が四辺にぴちぴち飛散って来る。快適な食べ物となる、栄養価が高く、安価でもある、この土地なればこそと思わせる。


んまそう(*´q`*)


釜ヶ崎は暴動などで何かと対岸の火事、原始人みたいな人々が暴れてるんでしょ? 的なイメージを持たれていると思う。

その有様も鼻息が掛かる距離から活写されている。

 今、ここに起こっていることは、遠いベトナムに起こっている問題ではないのだ。一般社会の目は、一つの面白い事件としてだけしか受け止めていないのだ。
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 三畳のバラックに四、五人も雑居している現状を知っているものがあるのだろうか。
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 郊外の、青い木々にかこまれた、空間をゆたかに持った、それらの人々は、真夜中になれば、天井からばらばらと米粒大の南京虫が落下して来る、バラックや簡易ドヤに、余儀なく押しこまれている、生活者の心情を理解してやれるだろうか。
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 あくまでも力をもっておさえる手だ。事態がここに至れば、これよりほかに制せられる手はなかっただろう。しかし、三夜にわたって、二千、三千と、動員された、警官のちからだけの一方的なあり方では、もうこの街には安心していることは出来ない。子供らの中にさえ、やめてください、わたしたちに悪いことがあれば改めます、何かしてあげたいと思います。いってください、だから、喧嘩はもうやめてください。悲痛な声が出るようになった。
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 旧住吉街道も、二十六号線も、人、人だ。その速さはあきれるばかり、しかも、野次馬ではない、彼の目は、石をひろい、または、乗用車に火をつける、その動作に、直ぐかかれるようにかまえている。
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 南海阪堺線路上まで、目だけを不気味にギョロッとさせた者たちが、どこに視点を置いているのか、激しい気配を押さえてもみ合っていた。
 事態がこんなふうになるまでは、三分とかかっていなかった。その瞬時、ほんの束の間だけ、口々に、正確だと思われるこの騒ぎの原因が伝えられたが、あとはもうなんのための、どうした原因の騒ぎなのか、全く烏合の衆のものとなって、大きく広がっていった。騒動が二日、三日と、夜になればたしかに主催者のある催しものに起こった。電車の運行も、バスも、タクシーも道を断ち切られた。
 人の集まるのに分秒もかからないのは、ドヤの高度成長、高層化がその役目をしている。一つの建物に三百、五百といるんだから、ただ一人の号令だけで大群衆となる。


群衆は時に狂気に陥る。
学があろうが無かろうが関係ないのは、歴史が証明していることだ。